ヒッグス粒子のお話【第4回】

時間がだいぶあいてしまいましたが、ヒッグス粒子探しの続きです。前回は、ヒッグス粒子が2つのガンマ線に崩壊するような現象の説明でした。ガンマ線は目で見ることができませんので、電磁カロリメータの中で電子のシャワーに変換して、電気信号として検出してあげます。電気信号の大きさはガンマ線が持つエネルギーに比例しますので、そこから元のガンマ線のエネルギーを知ることが出来るというお話でした。


さて、この中に登場する素粒子はどれも身近なものでした。ガンマ線は光の仲間ですので言うに及ばず。電子だって、現在進行形で眼の前のパソコンや携帯電話の中を駆け巡っている存在ですので、生活に欠かせない親しみ深い存在です。
しかしこれらは素粒子のうちのまだまだ一部分にしか過ぎません。世の中にはもっとたくさんの素粒子が存在しています。似た性質ごとにそれらをまとめていくと、幾つかのグループに分けられます。

電子と同じグループに属するものの一つに、「ミューオン」という粒子があります。このミューオンは、電子の兄貴分に相当する素粒子です。ほぼ完全に電子と同じ性質をもっていて、唯一重さが違う程度しか差がない素粒子です。ところがその重さたるや実に電子の200倍と文字通り桁違いに重いですので、結果としてもろもろ電子とは異なる振る舞いをします。

電磁カロリメータのところで説明をしましたが、電子は原子核に引っ張られて、ガンマ線を出したり、それが対生成・対消滅をしたりします。電磁カロリメータはその性質を上手く使って電子を倍々ゲームで増やし、電気信号として検出するのでした。ところがミューオンは電子よりもはるかに重いので、原子核に多少引っ張られても全然気にしませんし、ガンマ線を出すこともありません。ガンマ線を出さないので、倍々ゲームをはじめることが出来ません。そしてほとんどエネルギーを失うこと無く電磁カロリメータを素通りしてしまいます。

さて困りました。とても分厚い電磁カロリメータを素通りしてしまうとなると、どうやってもミューオンを「捕まえる」ことは難しそうです。ミューオンが飛んだ向きを調べたり、エネルギーの大きさを測定したりすることが出来ません。そこで少し方針を変えて、「素通りしても構わないから、そのかわり何らかの痕跡を残していってもらう」という作戦に方針を転換してみましょう。


物質の中には電子が満ちています。その中をミューオンが通ることを考えます。ミューオンは電子と同じ性質を持っていますので、当然電気を持っています。ゆえにミューオンが何らかの物質を通過すると、周囲の電子を引き付けたり反発したりしてドカドカと動かします。この電子を電気信号として捕まえてあげることで、「ミューオンが通りました」という痕跡を検出することが可能です。

ボーリングのピンが体育館の床一面にびっしりと立てられている様子を想像してください。この中にものすごく重いボールを投げ入れてみましょう。ボールが通った経路の周囲にあるピンはバタバタと倒れます。もし透明なボールだったとしても、ピンが倒れる様子から、ボールがどこを通ったか見当は付くでしょう。この場合、ボールがミューオン、ピンが物質中の電子に対応しているわけですが、重さの比はそれどころではなく、実に200倍。インディージョーンズと、その後ろを追いかける大岩の比と同じくらいあります。圧倒的な破壊力で、周囲のピンをなぎ倒しながらずんずん進んでいくわけです。通常のボーリングボールならある程度ピンを倒したところで止まってしまいますが、ミューオンは進行方向にあるすべてのピンを倒して、それでもさらに進み続けます。

何はともあれ、どこのピンが倒れたかを見ることで、ミューオンの動く方向を知ることは出来ます。ところが進行方向上のピンはすべて倒してしまうわけですから、エネルギーの大きさを知ることは出来ません。これは問題です。エネルギーを知るためにはさらに一工夫をしなくてはいけません。


先ほどミューオンは電気を持っていると述べました。ゆえにミューオンが磁石の近くを通ると、その磁場を感じて進む方向が曲がります。この曲がり具合というのは、ミューオンの速さに依存して大きさが変わります。ミューオンが速い、つまりミューオンのエネルギーが大きいほど曲がりづらくて、ミューオンがゆっくり動いているときには簡単に曲がります。

この性質を利用すればミューオンのエネルギーを知ることができそうです。先ほどの体育館の床下に強力な磁石をたくさん敷き詰めておきます。この中を電気を持っているミューオンが進んでいくと、磁場を感じて進む向きが変わっていきます。ミューオンが速ければ曲がり辛いので、ほぼ直線状にピンが倒れていきます。もしミューオンが遅ければ磁場によって曲げられやすいですので、ピンは弧を描くように倒れていきます。この違いを見ればミューオンのエネルギーは一目瞭然に分かります。



磁場中で曲がっていくミューオンの様子を上手くイラスト化したのが、アトラス検出器のライバルである、CMS(しーえむえす)検出器の人たちです。彼らのロゴを見ると、曲がった赤線が三本描いてあります。これがミューオンを表しています。下から、エネルギーの小さいミューオン、中くらいのミューオン、エネルギーが大きいミューオンとなっていて、その順で曲がり具合がどんどん小さくなっている様子が分かると思います。とても教育的な絵柄です。

さて、我らがアトラス検出器を見てみましょう。

右図は、アトラス検出器がまだ建設途中の頃の写真です。これを見るとまず目につくのは、外側に放射状に設置されている計8本のチューブです。これがミューオンを曲げるための磁石になります。このチューブの中にぐるりと線材が巻きつけられていて、超伝導磁石を形成しています。奥行き25mもある超巨大な磁石です。まだこの写真にはありませんが、この後、磁石の中にミューオンが通過した軌跡を記録するための検出器が設置されます。ガスを用いた検出器を始めとして様々なタイプの検出器が使われていますが、どれも原理は先ほど述べたのと同じで、ミューオンに跳ね飛ばされた電子を検出する仕組みです。


アトラス検出器の内側の方にも特殊な磁石が設置されています。それが次の写真になります。この磁石は電磁カロリメータよりも更に内側に置かれるため、電子やガンマ線の邪魔にならないよう特別に薄く作ってあります。どこにコイルが巻いてあるのだろうというくらい薄いものですが、これも超伝導磁石になっていて、強力な磁場を作っています。当然この中にもミューオンの軌跡を調べる装置が設置されます。*1この内側、外側の2つの磁石・検出器でミューオンが飛んだ経路を調べることで、ミューオンのエネルギーと運動方向を知ることが出来るのです。

さて、今回は私達にあまり馴染みのないミューオンという素粒子のお話でした。見たことも聞いたことも無い素粒子を検出しようというお話自体がどうにもしっくり来なかったかも知れません。ところが実はこのミューオンは、ヒッグス粒子探しにおいてはとても重要な役割を果たします。ゆえにどうしても一旦説明をしなくてはいけませんでした。このミューオンを使ったヒッグス粒子探しについてが、次回のお話になります。

前エントリーで告知しましたように、7月4日に今年取得したデータによるヒッグス粒子探索結果についてのセミナーが開催される予定です。それまでにもう一回更新できればと思っています。

それはまた。

*1:この検出器はミューオンのみならず、電子やその他電荷を持った粒子を検出するのにも使われます。